1960年6月 安保闘争のさなか樺美智子の死ぬ3日前、四国の地方都市に生まれる。名前は大伴家持の「咲く花は うつろう時あり あしひきの 山菅の根し 長くはありけり」という古歌から取られた。家持が蘇我赤兄に政権転覆の陰謀に参加を持ちかけられた際にお断りを詠んだ歌らしいが、私は長らく一時の花より長い根っこやなんて小市民的〜と思っていた。母は大伴一族はいつか栄光をつかむぞという執念深い歌だと主張。この解釈は未解決。誰か教えてください。
なぜこんなに世帯くさいのか謎
1966年〜1973年 新興住宅地化しつつあった郊外の職員住宅に育つ。まわりは農業高校の麦畑で、古井戸やらおやしろやらある民俗的世界を経験するが、高度成長の波により公害と原水爆実験とチクロや赤色5号なんぞにもどっぷり浸かり、何となく大人になる前に世界は滅びるような気がしていた。小学校では「シベリア監獄」なんぞというイジメもあり、給食は三角食法に生温い脱脂粉乳だったし、歯磨き体操やら詩吟踊りやら乾布摩擦やらちょっとヘンなことも多かった。
1974年 町に移住。孟母三遷だったような話もあるが、私は友達との別れが悲しかった。町の中学校は10クラスもあり、「ミュージックライフ」なんぞという雑誌を購読するススんだ友人もできジョン・レノンに惚れ、初めて買い食いとかもした。
1976年 高校時代は暗かった。革命詩人になりたいと思ったが才能がなかったので(爆弾作る知識もなかったので)、古都の大学を受験するも当然のことながら落っこち、浪人する。
1980年〜1984年 第一志望及ばず、大阪のお山の上の大学に入学。はじめて最寄りの駅を降りてひなびた商店街を見た時には、「都会」に出た筈なのにどうして、と悲しかった(はじめて公設市場とか、銭湯とか経験した)。はじめての一人暮らしにはまり、いい年してテレビっ子になったり、コミック買いあさり。大学の勉強は自由気ままでとても楽しく、いい友達、いい先生にも出会えて、まともな人生設計に失敗し、「長学歴」へ傾く。
1985年〜 院浪後めでたく「入院」。古文書オタクとなり、バイトに飛び回る。お金がないのに、お金の研究とは、これいかに。
1990年〜 30歳にしてはじめて「定職」につく。教職とは、教育能力の他に、事務能力や、セールス能力、さらには世渡り能力まで要求されるものだということに気づき始め、白髪が増える。教室は時々楽しく、たまに悲しい。
21世紀直前に私は離婚した。夫に他の女性ができたためであるが、10月はじめに始まり12月に離婚届を出すまでの苦しい経験のなかで、私が喪ったものは人に対する無邪気な信頼であり、獲得したものは自信でありプライドであったと思う。あの時期、女性史について多くの本を読み、深く考えた。