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林檎屋小間物店主オオサカリンゴ

格差社会と将来の不安に怒るこの頃

北摂の山の中腹に居住。職業教師。職業にならない仕事は日本史研究者。目と記憶力悪し。気管支炎と肩こり持ち。バツイチ。二重人格といわれる双子座。小折れができず最後は開き直るA型。火星人。通販とデパ地下の上得意。ふだんは図書館と職場と家と本屋、時々喫茶店やCDショップのあいだを回遊するというイワシのごとく地味な生活を送る。どちらかというと他人は苦手だが、そっと側にいたいとも思う。猫みたい。どんな旗のもとにも集まらない、掲げないのが信条といえば信条。

個人史

1960年6月 安保闘争のさなか樺美智子の死ぬ3日前、四国の地方都市に生まれる。名前は大伴家持の「咲く花は うつろう時あり あしひきの 山菅の根し 長くはありけり」という古歌から取られた。家持が蘇我赤兄に政権転覆の陰謀に参加を持ちかけられた際にお断りを詠んだ歌らしいが、私は長らく一時の花より長い根っこやなんて小市民的〜と思っていた。母は大伴一族はいつか栄光をつかむぞという執念深い歌だと主張。この解釈は未解決。誰か教えてください。

なぜこんなに世帯くさいのか謎

1966年〜1973年 新興住宅地化しつつあった郊外の職員住宅に育つ。まわりは農業高校の麦畑で、古井戸やらおやしろやらある民俗的世界を経験するが、高度成長の波により公害と原水爆実験とチクロや赤色5号なんぞにもどっぷり浸かり、何となく大人になる前に世界は滅びるような気がしていた。小学校では「シベリア監獄」なんぞというイジメもあり、給食は三角食法に生温い脱脂粉乳だったし、歯磨き体操やら詩吟踊りやら乾布摩擦やらちょっとヘンなことも多かった。

1974年 町に移住。孟母三遷だったような話もあるが、私は友達との別れが悲しかった。町の中学校は10クラスもあり、「ミュージックライフ」なんぞという雑誌を購読するススんだ友人もできジョン・レノンに惚れ、初めて買い食いとかもした。

1976年 高校時代は暗かった。革命詩人になりたいと思ったが才能がなかったので(爆弾作る知識もなかったので)、古都の大学を受験するも当然のことながら落っこち、浪人する。

1980年〜1984年 第一志望及ばず、大阪のお山の上の大学に入学。はじめて最寄りの駅を降りてひなびた商店街を見た時には、「都会」に出た筈なのにどうして、と悲しかった(はじめて公設市場とか、銭湯とか経験した)。はじめての一人暮らしにはまり、いい年してテレビっ子になったり、コミック買いあさり。大学の勉強は自由気ままでとても楽しく、いい友達、いい先生にも出会えて、まともな人生設計に失敗し、「長学歴」へ傾く。

1985年〜 院浪後めでたく「入院」。古文書オタクとなり、バイトに飛び回る。お金がないのに、お金の研究とは、これいかに。

1990年〜 30歳にしてはじめて「定職」につく。教職とは、教育能力の他に、事務能力や、セールス能力、さらには世渡り能力まで要求されるものだということに気づき始め、白髪が増える。教室は時々楽しく、たまに悲しい。

21世紀直前に私は離婚した。夫に他の女性ができたためであるが、10月はじめに始まり12月に離婚届を出すまでの苦しい経験のなかで、私が喪ったものは人に対する無邪気な信頼であり、獲得したものは自信でありプライドであったと思う。あの時期、女性史について多くの本を読み、深く考えた。

私の研究

私の専門とする研究分野は、歴史学、その中でも日本史、その中でも近世史、そしてその中でも金融史、という風にどんどん限定していくこともできるが、そういうのはちっともおもしろくないので、なるべく関心を広く持ちたいと思っている。歴史学の何でも貪婪に取り込んでしまえるところが好き。といっても、好奇心が強く、かなり自堕落なので、どんどん脇道にそれてしまうのがまずいので、フィールドと主たる分野は限定している。ただ今は、江戸時代を中心とした大阪とその周辺地域において、貨幣という「商品」の意味や、それが人間に与えた影響について考えている。船の世界にも興味がある。基本的に、英雄や革命ではなく、ゆるやかで着実な生活の変化を重視したい。

史料として古文書を取り扱う「古文書屋」である。近世古文書整理は私の原点であって、大好きだ。また史料保存は過去から未来へ受け継ぐべき責務だと考えている。

いくつかの市の自治体史や文化財関係の仕事に携わっている。地域というもの抜きに歴史学はできないし、また歴史学が地域に貢献できる部分も大きいと考えるから。というか、理論があっても土地や人々が見えないと、歴史学はできない。

歴史学は科学と芸術の中間にあるもの。外国の歴史書の叙述のすばらしさに憧れている。

これまでの研究遍歴はほとんど心向くままの流浪に近く、たいへん効率が悪かったが、楽しかったので、ほとんど反省していない。平野屋武兵衛や大根屋小右衛門といった大坂町人に時を隔てて出合い、地歌三味線やお稲荷さんや番付など、人間というものにいとおしさを感じて書いた論考も未熟ながら愛着がある。また大坂屋久左衛門という江戸時代の大坂で住友泉屋に次ぐ銅商人と出会い、それが縁で秋田阿仁や生野、足尾、多田といった銅山のあとを歩いたこともあり、研究は私の人生の道しるべでもある。

昨今の政治や社会状況には強い違和感がある。私は政治的な人間ではなく、組織や党派はとても居心地が悪いし、生活のなかの自分の感覚からしか発想できないタチである。だからこそ、ナチスへのレジスタンスのなかで、真に偉大な一人の人間として死んでいった大学者マルク・ブロックを尊敬し、共感する。そして大学図書館の隅に埃に埋もれた本のあとがきで、その著者がシベリア抑留から帰れなかったことを知ったときの、あの学びたいという痛切な思いをいつまでも忘れないようにしたい。

2003年12月、『大坂両替商の金融と社会』に修士論文以来の研究の一部に書き下ろしや修正を大幅に加えて本にした。この本に関しては無念なことや、もう少し早く出せばよかったという心残りがあるが、それでも本という形にしてよかったと思う。どんな研究でもそうであるが、最初から完成形のものはなく、最終的に完成形のものもない。不完全を積み重ねてこそ見えてくるものがあるのだと思う。その積み重ねの一つとして、私はこの本をいとおしく思う。